僕はまた今年も、この春も、あの邪悪極まりないひと品を求めてしまう。
移ろう時の狭間のような、爛漫の春のいまだけ。あの邪悪な木の芽が、庭の片隅に芽吹く。
邪悪なる山椒の葉は、先月半ばに芽吹き始めたと思えば、若草みどりのわかばをわんさと茂らせている。ふふふ、採り頃むしり頃。
なるべく色合いの淡い、やわらかく邪悪な葉がついた枝を選んで摘んでいく。指先から山椒の香りが立ち昇り、自分がアゲハチョウの幼虫になったような気分。笊一杯になるまでに二時間ほど掛かる。これはまだ序の口で、この先にはさらにずく(根気、やる気)を必要とする作業が待っている。
枝から、邪悪な葉を分離させるのだ。これが面倒くさい。信州の言葉で言えば、えらい。
さらに二時間ほどを経て、葉っぱだけが笊に盛られている。途中で退屈な朝飯を挟んだほど、えらかった。
量って見ると二百グラムの邪悪。これを洗って水を切り、目方一割程度の塩をまぶす。まぶして小一時間、置いておく。
少ししんなりした葉っぱを、ボウルの中でまとめるように揉み、今度はすこし強く揉む。
葉っぱの汁がにじみ出て来るので、これを絞る。かなりきつめに絞る。
汁は、灰汁(あく)である。レシピサイトでは「湯がいて水に晒す」とあるが、これをやると山椒の味も香りも抜かれて流されてしまう。まさに味気ない。
さて、塩で揉んだ分だけ塩っぱくなっている。この塩気と残った灰汁を酒で洗い流そう。一合ほど大雪渓を借りる。
こんな作業の合間にも、細枝や硬い軸を見つけては取り除き....。
再び絞って下ごしらえを終える。
もう半日過ぎている。これほどまでに手がかかるから、邪悪な山椒の葉の佃煮は、やたらに高い。手作りしたものは少量しか得られないから、他人にくれてやることも出来ない。だからお裾分けで頂くことは、有り得ない。
さて、炊く。
ここまでが大変だったのだが、この先も気を抜けない。行平鍋に酒と醤油、砂糖を煮立てておく。葉山椒を投じる。強火で火を通し、やがて中火で煮汁を含ませていく。
僕は白出汁を加える。これで味わいがぐっと深まる。
このさき、強火では炊かない。やわらかくなるまで時間をかけて炊く。小一時間後、つまんでみて邪悪な味わいだったら、煮汁を残したぐらいで完成とする。煮汁を完全に飛ばして、というのが日保ちさせるこつというが、僕には小さな瓶詰めふたつ分があるだけ。ひとつは湯煎で殺菌して夏頃まで隠しておくが、もうひとつは一週間も残らないだろう。だから煮汁も愉しみたいのだ。
翌、朝ご飯。この日は里山を歩いてこようと、五時過ぎにご飯とする。ま白き、北アルプスの稜線に降る雪のような、炊きたてのめしを盛る。以前の僕は、飯を盛る時はジャンダルムのように! を作法としていた。しかしいまは、もうやらない。軽く、そっと盛る。
ここへ、邪悪な葉山椒の佃煮が舞い降りる。
どこが邪悪なのかって?
こいつは、他の一切のおかずや汁物の接近を拒むのだ。
ほかにも用意のあった焼きたらこ、ねぎを刻み込んだ納豆、前夜の煮魚の残り、ひじきの煮物、きんぴら、あるいは野沢菜の漬物、これらをことごとく退け、白ご飯と葉山椒だけの一対一の勝負を要求してくる。予定調和的に構成されていた、さまざまな味わいのおかずたちが、駆逐されてしまうのだ。
そして常に、いつなる時も、白ご飯の完全なる敗北が宣言される。
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