2014年6月29日日曜日

梅仕事2014、第二章

小梅を漬けるのは初めてである。

どうしても数が多くなるから「へた」を取るのが面倒に思えたことと、小梅を食するぐらいなら大粒の方が良いというだけの理由だった。それでも、売り場で地元の中学生が校内の梅から収穫したこと、収益が行事などに活かされると知って、初トライすることにした。

6月28日。キロ198円、3キロを買い求める。


細い流水でしばらく洗う。小一時間ほどこのまま放置。その後、何百粒あったのか数えた訳でもないが、ひと粒ずつ黒いへたを取り除いておいた。


笊に開けて水気を切り、塩分を18%として『あらしお』を用意。瓶(かめ)が塞がっているので、プラの漬物樽に漬物袋で仕込む。漬物樽もポリ袋も、気をつけないと中国製が蔓延している。せっかく国産梅で安全な梅干を作ろうとしているのに、こんなところで毒が入り込む隙を与えてはならない。僕は根気よく探して国産品を見つけた。




ひと粒ひと粒に塩をまぶしていく訳にもいかない。ざざっ、ばさっと梅粒、塩と交互に詰めていく。



梅酢が上がるまで、重しをしておく。重さの計算式もあるようだが、僕は適当に済ませてしまう。ちょうど手頃な4リットルのウイスキーボトルが、たまたま転がっていたので、誰が飲んだのか放り出されていたので、水を注いで重しに。右奥の瓶(かめ)は、一週間前に仕込んだ『白加賀』。























小梅は思っていた以上に早く、梅酢を上げてくれた。翌朝には全部が浸かるぐらいまで、しっかり。そうだ。国産の蜂蜜を買い置きしてある。蜂蜜梅を漬けたことが無いので、試してみようか。少し調べてみる。





干すのも面倒くさいだろうが、そこはづくを出してこなしていこう。そう思えば土用干しが、待ち遠しくもある。








2014年6月28日土曜日

葱を携えた男

ランチの本質について、考えてみよう。 



昼頃に発生する空腹を満たすため、か?
否。

午後へのエナジーチャージか?
否。





朝。ひとりキッチンに立って仕事場の片隅でいただくランチを整えながら、僕はこう考えている。

きょうもきっと、素晴らしい一日が!



仕事場に向いながら、節をつけて歌う。

んふっふーん、今日のランチはうどんだぜぃい。いぇーい。





朝のうちの仕事を片付けながら、まだ朝飯の余韻に浸っている僕が居る。その傍らで、3時間後ぐらいのラインタイムに、思いを馳せる。

うほっほーい、うっどんだぜぃ。


チャイムが鳴って、弁当を広げる。この日の弁当は、マルちゃんの『赤いきつね』と『アラジン・フードコンテナー』の白いご飯。ただし、摘みたての青葱をたっぷり、ナルゲンの広口ボトルに詰めてきた。ふりかけもある。こんな具合にいつも、どんな時でも、満足度は限りなく高い。




午後。
くっそ難解な図面とにらめっこしながら、葱の香りを思い出す。

いつもながら、美味い葱だったなー




そして、仕事に打ち込んだ一日が終わる。




ランチは、思い描いたり思い出したりしながら、午前と午後をつないでくれる、尊い儀式なのだ。ランチで満たされた一日は、素晴らしい一日になるのだ。




この日。豚ロース切り落とし肉の味噌炒めと、庭の蕗を炊いたのを載せたご飯。セブンイレブンの『スープが決め手の とんこつ』。もちろん、たっぷりの青葱を載せて。さらには白胡椒を振って。





この日。自家製炙りチャーシューのグリルと、味付け玉子、ソーセージを載せたご飯。麺に、セブンイレブンの『スープが決め手の とんこつ』。そう、たっぷりの青葱を載せて。






この日。ソーセージとかのおかずを載せたご飯。主役はセブンイレブンの『スープが決め手の とんこつ』。その通り、たっぷりの青葱を載せて。





青葱は、このくらいがよろしい。タワーを成し、天に突き上げるが如く、高く高く盛るのがよろしい。 









セブンイレブンの『スープが決め手の とんこつ』には、『桂花』のマー油に良く似た調味油がついている。にんにくを香ばしくローストした、熊本系のあれだ。 あまり饒舌に書くとステマになってしまうので控えるが、ぜひ、試してみていただきたい。豚骨原理主義者の僕が、言う。








2014年6月22日日曜日

梅仕事2014、第一章

またこの季節が巡って来た。八百屋の店頭に青梅が積まれた光景を眺めると、なぜか背筋がびしっと伸びて「うむ。」という呟きが漏れる。僕は梅酒づくりはやらないので、青梅の次に入荷しはじめる、熟した黄色い梅への備えである。切り立てといって寸胴型の瓶(かめ)を洗ったり消毒したり、塩を買っておいたりと忙しい。どの等級、品種を塩分何%で何キロ仕込もうか、と財布との相談もある。まあとにかく、梅干づくりが近づくと落ち着かないのだ。

台所の床下や自室の押し入れには、まだ10kg以上の在庫がある。一昨年、昨年のものだ。こんなに在庫しておきながら新たに漬け込むのはいかがなものかと、家人や婆さまは批判的な視線を投げてくる。しかし梅の購入から仕込み管理保存まで、豆ども(こどもたち)には手伝わせるけれど家人の負担を求めたことなど、一度も無い。だから尖った視線も皮肉も一切無視する。っていうか、梅干を誰よりたくさん喰うのはお前だろうと出かかる文句も、黙って呑み込む。



たかが梅の実を、塩にまぶしたりお陽さまに干し上げたりすることに、そんなにちからこぶを入れなくても良くね? 確かにそうかもしれない。かもしれないが、僕にもこだわりがある。

僕が大好きな水上勉さんがその著作『土を喰う日々』でこう書いておられる。

まことに、人は、梅干一つにも、人生の大切なものを抱きとって生きるのである。

またこのようにも。

世をたぶらかして死ぬだろう自分の、これからの短い生のことを考えると、せめて梅干ぐらいのこしておいたっていいではないか。


そう、梅干はちゃんと作れば人の一生より長い時を刻むことがあるのだ。だからこそ手抜きをせずにちゃんとちゃんと、仕込みたいのだ。



 
 

平成26年6月21日。いつも覗く売り場で、群馬県産『白加賀』Mサイズ3kgを購入。1kg、298円なり。過去にはキロ980円の南高梅5L等級なども漬け込んでみたのだが、僕には安い梅でいい。これは妥協の結果ではなく、白加賀の肉厚で濃厚な食味、それでいて種の奥から香るあのフレーバーが好ましいのだ。また皮が厚いが故の破れ難さは、土用干しでの干しやすさに通じるし、1年2年と寝かした白加賀の実の、その皮は柔らかくふっくらとなってくる。



ざっと洗いながら、汚れを流す。あくを取る、という手順を聞いたことがあるが、あまり長く水に浸すのも梅の実を傷めそうなので僕はやらない。



笊に開けて水気を良く切る。まだ青い実がかなり混じっている。こいつらは一日置いて塩をまぶしたいところだが僕の都合もある。今回のロットはこのまま塩漬けにする。



黒くなったヘタを丁寧に取り除き、ホワイトリカーにくぐらせる。そのまま瓶の中に並べていく。『あらじお』を使用して塩分18%、減塩はしない。




これは昨年の白加賀。瓶を空けるために、ビンに移ってもらう。



ビンは冷暗所で、何年のちまで残っていることやら、休んでいてもらおう。もちろんキャップを締めてから。



4kgの重しを乗せておいたら、一晩でここまで梅酢が上がって来た。梅の実が完全に浸かれば、黴発生の懸念が薄らぐ。梅干づくりは半分成功と言ってもいいだろう。



梅酢の上がりを確認できたら、このまま土用の頃の炎天を待つ。柔肌を太陽に晒して、灼き上げるように炙って、梅の実は梅干へと変貌する。こうタイプしながら、じゅるっと音を立ててしまった。







2014年6月18日水曜日

まつもと路地裏散歩

観光写真にはなり得ない、信州まつもとの路地裏の写真を貼っていく。一部にふだんの街歩きでは届かないディープな区画、あるいは既に失われてしまった風景を含んでいる。



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安原町の小路

ここは北国街道西往還(善光寺街道)、松本宿のはずれ、安原町。安原町を過ぎればとなり元原町には木戸番所が設けられ、これより先、御城下を離れる。街道は北へ善光寺へと続く。

その安原町の一角に趣きのある小路があった。過去形で書くのは、下の写真左側の古い建物が、撤去され更地になっていたためだ。
 
  この写真は、小路を善光寺街道からひょい、と北側へ覗き込んだ格好で撮っている。いまから数年前の散歩の途中。
 

 小路の奥、北から振り返るとこんな風景が望まれた。
この黒い建物は、画廊なのかカフェなのか、そんなかたちでも使われていたようだが、中に入る機会を得られないまま、取り壊されてしまった。
 

 壁面に、陶器製の煙突が継がれながら屋根へと伸びていた。限りなくうつくしい、職人の手に依る造形。これが本来の「用の美」すなわち工芸だろう。


 小路の南端。つまり街道の往還上から小路を眺めている。建物の玄関に当たる場所に、手製の看板。つまり、持ち主はこの建物が歴史ある街道を見守って来たこと、その歴史的価値を理解しておられるのだ。そしてこれからもその価値を残し活かすべく、考えておられたのではないかと拝察する。


いかなる事情があったかは知る由もないが、昨年、この古い建物が取り壊されてしまったことを惜しむのは僕だけではないだろう。



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浅間温泉界隈

浅間温泉に棲み暮らしていた時期があり、なんとそのマンションの大浴場には源泉掛け流しのお湯がどぼどぼと注がれ続けているという有様。住人は20世帯ぐらいで、混む時間帯でも窮屈なことはない。湯質も最高で僕は日に3回は入浴していた。あのまま住み続けていたら皮膚の角質という角質が失われてしまって、茹で玉子のような姿になっていたことだろう。


そのころ、長男坊を載せたベビーカーを押しながら、温泉街周辺を隈無く歩き回った。もう10年前のことだ。

この崩れかけた土蔵は僕が勝手に「黒澤蔵」と名付けていた。理由は、黒澤映画で、袴も擦り切れて垢染みた浪人ものが抜刀しながら飛び出してくる場面に使えそうだ、と思ったからだ。それも雷鳴を伴った夕立か、あるいは音もなく降りしきる雪の中。そうタイプして、僕は黒澤映画を一本も見ていないことに思い当たる。すいません。

そうそう、写真右奥のあたりに「男装の麗人」で知られる川島芳子こと愛新覺羅顯玗(あいしんかくら けんう)が住み暮らした家があった。



  公衆浴場、港の湯。温泉街のバス停前にあって、お湯が熱いことで知られるパブリック・バスだ。ここにも何度と浸からせていただいたが世界遺産に推薦したくなるぐらい素晴らしいお湯だ。観光の方も、是非に。



 その裏手。今は(当時は)何に使われているのかも判らない建物の玄関先、頭上のランプと装飾が美しい。勝手な想像だが、温泉街ということで芸者さんたちの待機所みたいな場所だったのだろうか。置屋さんとかそう言う呼び方かもしれないが、粋の世界のことは昔の小説で読んだ程度にしかわからない。



  温泉街の細い坂道。右側、手すりのように見えるのは源泉の給湯パイプだ。源泉近くに分湯場と書かれた小屋があって、そこから個人宅や小さな共同浴場に引かれているようだ。パイプがむき出しで良いのか、保温の皮膜がなくて心配していたのだけど、こうやって冷ますぐらいが丁度良いのが浅間温泉の源泉なのだろうか。それとももう使われてないのかもしれない。



   御射神社さんという古いお宮がある。ここの火祭りのことはまた機会を改めて書こうと思っているけれど、お宮の参道脇の小径がいい雰囲気。右側の石垣に丸い花崗岩が使われている。北アルプスから流れ出る水の流れが、丸い石を運んでくる。こういうのはあづみ野豊科辺りで地面を掘ると無尽蔵に出てくる。これを塀の基礎の石垣にするのは、安曇野と松本でよく見られる風景だ。


  浅間温泉にも蔵づくりは多い。上は目之湯さんという湯宿の蔵。この小路、春は桜、芽吹き、夏は葉陰、秋の彩り、そして冬のたたずまいと四季を通じてうつくしい場所だ。



  これは浅間温泉でもいちばん山寄りの民家の蔵。写ってる車道を、初夏のイベント「ツールド美ヶ原」参戦のサイクリストたちが呪いと悪態をつきながら漕ぎ上がる。待ち受けているのはカブでも1速で登る急坂だ。おっと、サイクリストたちが呪いを叫ぶイベントも、もう来週か。


 
温泉街の古い建物の前に放置されていた金属製の部品。パイプとかバルブとかそう言う種類のもののようだ。さすが温泉街。


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今町あたり

御城下に戻ろう。松本城の入り口に当たる千歳橋を渡って左へ向うと、六九と呼ばれる通りに入る。この通りから今町に出るあたりに、山屋さんという屋号の古い建物が建つ。これがいい味出してるれんが造りの建築で、観光でのお散歩でご記憶の方もあるのではないだろうか。いく棟かあって、煙草屋さん、飴屋さんと幅広い商いをなさっておいでのようだ。
  このサイン、ペイントではなくタイルなのだ。モザイク壁画ということ。
 

  看板にはコンクリも、とある。 




  東側に移動すると、いい雰囲気の珈琲屋があったりする。その先には古い蔵づくり。



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長沢川

御城下の南寄りに鎮座まします天神様(深志神社さん)の傍らを清らかな小川が流れている。長沢川といって、東の方、山辺というところから流れ出ている。あるとき、自転車に乗って水源を探しに出かけた。湧き水が多い土地だからあちこちから細い流れを集めているのだけれど、いちばんメインらしいのを追いかけて、東へ東へと遡っていった。ついに、入山辺といって薄川の谷に入る山峡の入り口で、薄川から分水されている用水を見つけた。これが流れ流れて途中湧水を集め、最後は松本駅の構内をくぐって田川に注いでいるようだ。

 天神様の境内の傍らを流れ過ぎたあたり。


 もうちょっと下流で。この先の保育園の園舎の前でもせせらぎが聞こえていた。まだ小さかった豆ども(こどもたち)を連れて、何度、この流れを渡ったことだろう。



 むかしはここが国道19号だった。長沢川の橋は欄干が残るのみ。この橋には逸話が残されていて、戦国の頃、出陣する幼い兄弟を見送る母親が、こらえきれず引き止めようと袖を掴んだ、云々。このため、ふるくは袖留橋と呼ばれていた。



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縄手界隈

縄手、というのは縄のように細い土地、という由来らしい。松本城の南面の守りを担った女鳥羽川という川の流れに面した細い土地で、明治になって四柱神社が建てられたことから、参詣の客を呼び込み門前町のような賑わいを見せるようになった。
 
 その縄手通からもう一本横に逸れた縄手横町。


 この水路には山女もニジマスも住む。水源は松本城の総堀の水にくわえ、松本市役所付近の井戸の水が流れ込んでいるようだ。さらにいくつかの湧水も注いでいる。


  縄手通は、いわば露天商の人たちが商売を行う場所だったわけで、いまでこそ普通の店舗が建ち並ぶけれど、お祭りのとき、暮れの歳の市、そんな時には「オリジナル」なご本職の方々が商いをしている。写真のいなせな金魚屋さん、うちの豆どもに金魚の掬い方のご教授をしている最中。このときの金魚は数年を生きて、いまでは庭の土になっているけれど、ながいこと僕を癒してくれた。




  縄手通で忘れられない、ひとりのおじちゃんがいる。すこし前に亡くなったのだけれど、保育園の帰りなど、幼い豆ふたりを連れた僕を見ると声を掛けてくれて、商売ものの菓子を豆たちにくれたものだ。 うちでは「寅さん」と呼んでいたのだが、映画の寅さんがあと20年も経てば、というまさしくそんな雰囲気だった。身寄りが無かったらしく、だんだんと人々の記憶からも薄れていくのだろう。僕自身、縄手通を通ることはめったにないのだが、豆どもに小さな優しさを分けてくれた寅さんのことは、覚えておこうと思っている。





なんだか自分のことばかり書いてしまって、申し訳ない。風景は個人の経験とか記憶の中に息づいているものだなあと、実感。



2014年6月16日月曜日

ベーコンを諦め塩豚を茹でる

ある日のこと、長男坊主と自家製ベーコンを作る約束をした。以前にこっそり僕独りで燻していた時などは興味も持たなかったようだが、OAか何かで観たのだろうか、是非やりたいという。

仕込みに一週間をかけるので、あらかじめ国産の豚バラブロックを二本買い求め、下ごしらえを済ませた後に塩とハーブを刷り込み、冷蔵庫に数日間を寝かせる。僕の作業イメージでは、こうだ。

前週土曜。バラ肉の仕込み。
数日後の週後半。一晩かけて塩抜き。
その週末前。冷蔵庫内で24時間の乾燥。
やっと土曜日。燻し上げ、夜まで放置。

塩抜き作業にかかるのが一日遅れ、金曜夜の帰宅後に塩抜きとする予定に変更。土曜日乾燥、日曜に燻製となるはずが....。


金曜日の朝にちょっとしたアクシデントが起きた。このために僕がスモークウッドの調達などを行えなくなり、当初目論んでいた自家製ベーコンは全面的に諦めて「茹で塩豚」にスイッチする。要は、軽い塩抜きをした後で茹で上げるのだ。


 

七日間を冷蔵庫に眠った豚バラブロック。腐敗していることが懸念された。





外側は白っぽくなっているが、ブロックの合わせ目は真っ赤な肉の色。肉質がきめ細かくなり「にとっ」という手触り。香りはスパイスとハーブの香りで、肉の熟成臭があるが腐敗の兆候は全く無かった。こっそり白状すると、塩に梅酢を5ccほど混ぜた状態で刷り込んであるのだ。

二本で約1kgの肉塊に塩50g。このほかにローリエ、乾燥パセリ、自家製乾燥にんにく、乾燥させた生姜の皮、黒胡椒、白胡椒をミルにかけた。プラス、先述の梅酢。ポリ袋で2回密閉し、さらにジップロック。毎晩天地を返してある。塩抜きは流水ではなく、ボウルの水に浸し30分漬けては2回水を換えた。



鍋に湯を沸かし、沸騰したところで肉塊を投じる。湯を踊らせない程度の中火で灰汁が出るのを待つ。灰汁は全部すくいながら、弱火で30分。ここで肉をひっくり返して蓋をし、とろ火で30分。消火後は2時間放置した。



端の方をカットして、テイスティング。最初はそのまま味わうことで塩加減を確かめ、またハーブ類の香りの定着加減から食し方を考えることにした。



その結果、最初に辿り着いた結論が、行者にんにくの生・醤油漬け添え。肉の塩気がしっかりしているので、漬けダレは垂らす程度とした。



肉質をご覧になりたい方のためのズームアップ。
これは、もはや人類の食するものではない。淡い紅色が残るが火は通っている。肉は歯ごたえを残しながらも噛めばほぐれるような食味。また脂身がもっちもちして噛むほどに味わいの広がりを楽しむことができるが、僕のようなミドルにはやや重たい。


趣向を変えて、ポン酢を垂らす、辣油を試す、青葱の刻みを載せる等を愉しむと、いつしか僕は満腹になっていた。それもそうだ。500gの肉塊が僕の胃袋に消えたのだから。




え? ミドルがこんなもの500gも食べて良いの?


それが諸賢、聴いてくれ給え。金曜日のちょっとしたアクシデントと言うのが、こういうことなのだ。



二週間以上はギプスのため歩行不可。しばらくはウイスキーも飲めないだろう。歩けるようになってもリハビリに多くの時間を割くことだろう。



夏山? 沢登り? ふんがー!