2017年8月15日火曜日

満ちてまた移ろう時に


わたしにも、ささやかながら夏休みが訪れてくれた。日程と天気図とを眺めてみれば、山靴を履いて出かけることは無理なようだ。日帰りで良いからアルプスの稜線の風の音を聴いてみたいと考えていたが、致し方ない。

山への思いを振り切るような朝は、300グラムのスパゲッティを茹でよう。むろん、わたし独りで平らげるのである。具材はベーコンと庭の畑の野菜たち。




オリーブオイルとにんにくの香りを楽しむ時間。後立山方面の某山小屋に居る友人から「酒が切れてやるせない思いをしている」というメッセージが頻繁に届くのだが、やるせなさとやらは、断ち切ってやれそうもない。

ふん、思い知るがいい。




強火にして麺、具材、茹で汁を合わせる。この乳化が、味わいを決める。素材と、火と、オイルが創り出す奇跡である。朝に300グラムのスパゲッティを頂くと、昼飯はもう入らない。ふん、昼寝をこいて夕方までぐうたら過ごすつもりである。これでいいのだ。










ジャックの奴、日陰のひんやりとしたコンクリの上から動こうとしない。こいつはもう7歳ぐらいになる元雄のねこで、去年の暮れから今年にかけて大病を患い死にかけた。悪行の報いだ諦めろ、と引導を渡したつもりが蘇って、いまこうして生きている。それもひとつの奇跡だろう。





アブラゼミ氏は、灼熱に炙られたコンクリの上でも、もう熱さを感じることもないだろう。長い地下生活の後の、一瞬の樹上生活は満たされたものだったことを、わたしは祈ろう。





ある宵、夕立がすぐそこに降り注いでいる。ほんの数分だけ立ち会うことができた、光と時が織りなす奇跡である。そう、すべての風景は奇跡である。





拙宅の近くの葡萄園では、良い香りが漂い流れている。葡萄の香りを嗅ぎながら、ブルゴーニュが一本隠してあったことを思い出す。まだ午後早い時刻なのに、ワインの栓を抜く言い訳が見つかった瞬間だ。




梅たちは、降りみ降らずみ、ぎらりと照ってくれるお陽さまになかなか逢えない。わたしの休日と完全な晴天という組み合わせは、滅多に訪れないものだ。いいさ、曇天ならばもう一日を費やして干してやろう。

こうして梅干たちも、やがて干し上がると笊から瓶に移る。すぐに食べられてしまうのかもしれない。来年、誰かのもとに送られるかもしれない。あるいは、永きにわたって保存されるのかもしれない。梅たちの未来は、運命は未だ定まらず。瓶の中ではゆっくり眠るがいい。








2017年8月6日日曜日

紫蘇の葉をふりかけに仕立てる


赤い紫蘇の葉っぱをふりかけに仕立てる。紫色のパッケージで売られている『ゆかり』もどきである。





梅仕事をしていると、赤紫蘇の葉っぱという副産物が手に入る。僕の梅干しは「白干し」で良く、必ずしも赤紫蘇を必要としていない。だがしかしこのふりかけ作りのために、赤紫蘇を使って赤く染めた梅干しも、つくるのである。





梅のエキスと塩をまとい、酷暑炎天の太陽が焼き尽くし乾燥させた赤紫蘇の葉。





昨年の肉厚の梅干しをみっつ、種を抜き、ふつか二晩干し上げておいた。仕上げに電子レンジの200wで2分加熱する。







フードプロセッサーにセットする。





粉砕された乾燥紫蘇の葉と種ぬき梅干し。自家製、手作り無添加の梅肉入り赤紫蘇のふりかけの完成である。





味見してみた。だれだ飯櫃を空にしたのは。いまここに白い飯がないことを呪う瞬間である。








しかし今朝は、飯がある。日曜日の朝食である。週にたった一日、ゆっくりと味わえる朝飯のひとときである。炊きたての熱いめしをどんぶりに盛る。おかずももちろん、整えてある。

紫蘇と梅が、香る。美味い。白米万歳。箸が勝手に飯を取りに行く。瞬く間にどんぶりは空になり、二杯目が盛られる。二杯目はおかずを味わいながら、ゆっくりといただく。

うむ。この国に生まれて良かった。白い飯と梅香る紫蘇の葉の、奏で合い響き合いを楽しめる国に生まれて良かった。そして、来年春までに田んぼを買わねば。欲しいものリストに一点追加である。






おかずだって妥協のかけらもない。国産豚のバラ厚切り、信州牛もも肉厚切り、これをじゅわっと炙り焼きにしてある。牛ももはレアである。中が赤い。目玉焼きを添えて、野菜が足らぬとお叱りを受けぬように庭の菜園から申し訳程度にミニトマトをもいできた。実は肉の下に、玉ねぎひと玉がカットされソテーされ、忍ばされている。ザッツ・ブレックファスト。日曜日の男の朝食とは、かくあらねばならぬのだ。