2017年4月29日土曜日

春常念、山の神さまに会いに


あの白い雪渓を詰めて、山の神さまに会いに行こう。





休日の夜明け前。わたしはリトルカブにキックを一発見舞って、エンジンを目覚めさせてやる。そして軽々と車体に跨がり、真っ暗な安曇野を駆け抜ける。

堀金まで来ると東の空に暁のひかりが現れてきた。戸谷峰の上には明けの明星、美ヶ原の上には三日月である。





田植えも近いんだろう、水が張られた田んぼの向こうに、モルゲンロートの常念さんが輝いている。いまから、会いに行きます。わたしは一ノ沢の林道に軽快なエグゾースト・ノートを響かせ、駐車場にリトルを滑り込ませた。ヘルメットを脱ぎ、ダウンジャケットをザックに押し込み、山靴の紐を締め直しただけで、歩き始めた。





山の神さま。おはようございます。すぐに会いに行きます。





古池を過ぎれば、すぐに雪が出て来た。わたしが大好きな春山の匂いが微風とともに流れている。





腐り始めた残雪も、朝はかちかちに固い。針葉樹の森のいい匂いも混じる。これが春山なのである。





うつくしい。わたしは美しいものが大好きだ。





「アパランチ・ストリート」とわたしが名付けた沢地形を過ぎる。お諏訪さまの御柱みたいな巨木が文字通り木っ端みじんに粉砕されて転がっている場所。この春も、デブリで埋め尽くされている。





笠原を手前に、ひとやすみ。コンビニのパンをふたつ、腹に押し込む。





笠原の風景。わたしは「北アルプスの雪捨て場」と呼んでいる。それぐらい、デブリが凄いのだ。





笠原からは雪渓を詰めて行く。背後に浅間山の煙がぽんぽん噴き上がっている。この日はスキーヤーとボーダーを何組も見かけた。みんな凄いものである。





左俣のひとつ手前の沢。うむ、デブリである。帰りはここを滑り降りて来るスキーヤーが居た。





さて、一ノ沢本流の雪渓とお別れである。ここで左俣に入る。





常念乗越に突き上げる左俣。ポールをしまいアックスを握る。どんどん傾斜がきつくなる。もう写真を撮る余裕などない。





ヒャッハー!
お槍さまがお出迎えである。お槍の神さま、いつもわたしの魂にぐさりんちょすありがとうございます。

小屋番さんたちが玄関を掘り起こしている。そういえば、そろそろ百周年ではないか。





山頂に向おう。
おお、今年は山頂方面も雪が多い。





中岳の舞姫さまは、まだ冬の眠りの最中に居られる。





常念の神さま。会いに来ました。





穂高の神さま。会いに来ました。明神の神さま、会いに来ました。霞沢岳の神さま、急いでて眺めるのも忘れました。写真も撮ってません。





遠く劔の神さま。会いに来ました。遠くからですいません。針ノ木の神さま、最近ご無沙汰してますすいません。立山の神さま、行ったことありません行く予定もありませんすいません。





後ろの神さま。連休都合が付けばお邪魔しますすいません。





二分以内に、山頂を後にした。





あああお槍さま。





ああああああ独標さま。
ヒュッテ西岳は雪に埋まってる。





御影石に腰掛けて、こころをふわふわと飛ばしている。写ってるのは常念小屋の屋根だ。





いつか長い休みが取れたら、会いに行きます。





乗越まで戻ってお供えである。大切な神事だから、おろそかにする訳には参らぬ。





さて、ここを下るのだ。登って来る時は屁でもない(大嘘)が、下る時はいつもちびりそうになる。





神さままた会いに来ますので、どうかこの過激な雪渓下りが無事に終わりますように。せめて大福三段重ね分はわたしを守っていただきたい。それからそこの雪庇、崩れ始めてるようだがわたしが下に着くまで、雪崩れることは許さぬ。





ふう。毎回ながら怖いものである。





そして笠原。誰だこんなに雪を棄てたのは。





一ノ沢口まで戻り、装備を解く。





山麓では八重桜が見頃。山の神さま、ありがとうございました。また来週あたりよろしくお願いいたします。





2017年4月16日日曜日

みたび、あの桜のこと




信州の春は、弾けるように爛漫を迎える。丘の上の、あの桜に会いに行こう。







前夜のウイスキーが過ぎたのか、酒を携えてくる気にはならなかった。

いや、そうではない。目覚めに空腹を覚え、勢いでかき喰らった朝飯のせいか。もう若くはないのだ。早朝から大きなどんぶりに「これでもか」と盛った炊きたてのぬくい飯と穴子の蒲焼きは、重すぎた。







うむ。朝飯には、あまり向いていないような気がする。





家からぶらぶらと、歩き始めて気づく。水路に、せせらぎの煌めきがまぶしいのだ。心地よく響く水音が、田植えの時期が近いことを知らせてくれる。ふと見上げた空を、燕が舞っている。





松本郊外、岡田塩倉の池の畔に着いた。対岸の丘の上の桜も見えてきた。おお、咲き始めているようだ。    




果樹が植えられた丘の上。古い観音堂の傍らに、その枝垂桜はある。かつては左右にあったのだろうが、向かって右の樹は根元が残されているだけだ。それでも、圧倒的な存在感で丘の上から僕を見下ろしていた。




昨年も、その前にもこの枝垂桜のことを書いた。僕はこの樹に会いに来ると、数分は言葉も感慨も喪ってしまって、ぽかんと口を開け、黙って見上げているしかない。今日も同じだった。しばらくは、写真を撮る余裕すらなく、眺めていた。

満開は数日のうちだろう。次の週末では遅いかもしれない。






桜色の天井。満開となったこの桜の下に立つと、昨年もその前にも、全身の肌が粟立ったものだ。ことし、二分咲きの下に立っても同じだった。咲き具合じゃないのだ。






これは先月の観音堂の様子。芥子望主山へぶらぶら出かけた帰りに寄ってみた。






お堂の東側のソメイヨシノ。


いったい誰が、なにが樹々に春を知らせるのだろう。数日前には雪が降ったり、また翌日には南風が吹いたり、季節は揺さぶられるように移ろう。それなのに樹々たち花たちはほころびる時を待ち、そしてあらかじめ知っているかのように一斉に咲く。思えば不思議なことではある。





お堂の裏手に回る。念仏供養塔と道祖神越しに、松本の市街地と鉢伏山が見えている。弘法山といって、おびただしい数の樹が植えられた桜の名所があるのだが、あちらも咲き始めたようでうす紅色に染まっている。賑やかなのだろう、向こうは。こちらの丘は、僕独り。






またこうして、春のひかりの中で塩倉山海福寺観音堂の枝垂桜に会えた。そしていつかお迎えが来る時は、いくたびか眺めたこの桜の情景を思い出しながら、僕は安らかな気持ちでお釈迦様の弟子にしてもらおう。