2014年4月20日日曜日

ある春の日の、昼の酒

ろくに休みも取れず、春の山遊びにも出かけられず腐っていると、熊太郎の奴から連絡が来た。
熊太郎は以前に小屋番仲間だった奴で、名前の通りの野郎だ。その熊太郎、ある春の土曜日の朝っぱらから僕の電話を鳴らし、一時間後に待ち合わせようと言う。名前の通りの野郎だから断りも拒絶も通じることなく、僕らはお昼前の城下町を歩いていた。蕎麦屋か寿司屋があったら、そこで昼飯を兼ねて酌み交わそうというくわだてである。

しかし、蕎麦なり鮨なりで野郎の胃袋を満たすことを考えると、出費という点で気が重い。上握りを五人前ぐらいは覚悟しておこうか.... そこまで追い詰められていた僕らは、いや、追い詰められていたのは僕だけだが、松本の城下町の中町という通りに立っていた。電線は埋設され、両側に古い蔵づくりの店々が建ち並び、工芸品や郷土料理などといった商いをしている。四季を通じて観光客がそぞろ歩いている通りだ。



中西屋本店。
その辻のひとつに、蔵づくりの酒屋があるのを僕は知っていた。なぜなら数年間、朝夕この前を通って保育園への送り迎えをやってたからだ。そういえばあの酒屋、昼間っからお客が店先で飲んでた。常連には立ち飲みをさせるのだろうか? そうした記憶が甦り、思い切って覗いてみようとがらり戸を開けてみたのだ。

なにこれ最高。

熊太郎
熊太郎がくつろぐ店内の様子。
ちゃんとしたテーブルがあり、椅子まであり、清潔なコップが積み上げられている。奥には冷蔵庫に冷やされたビアもある。ウイスキーの瓶の量り売りもやってる。ラジオを聞いてた女将さんが快く迎えてくれた。
時計を見れば、間もなく正午だった。問えば、お昼から飲ませるよ、でももう良いよ。女将はそう言った。僕らは冷蔵庫から好みのビアを取り出し、柿の種とかベ ビーチーズとかそういうつまみを選んで女将に見せた。女将は、品物の定価を計算し、僕らは小銭を出して払った。ビアを重ねて日本酒に切り替え、焼酎やウイスキーを舐め始めた頃にはだいぶ酔ってきた。それでも二人で三千円ぐらいしか使っていない。なんと無駄のない飲み方だろうと、我ながら最高のチョイスが出 来たものだと良い気分だった。熊の野郎を酔わせるのに三千円。野郎はまだ飲むだろうから、それでも五千円もあれば足りるだろう。安いもんだ、けっ。

熊の野郎、腹が減ったと言い出す。熊に乾きものだけじゃダメか。

こうして僕らは、ほろ酔い以上、千鳥足未満という至福のコンディションで路上に戻った。実は僕だけは満ち足りていた。でも熊が腹減ったと言うし。さてもう一軒、カフェみたいなところでビアでも飲み直して....

僕の意識が伝わったのか、熊太郎が「シャンパン飲もうよシャンパン」といきなり斬りつけてきた。

うわなにお前熱あんの? 芋焼酎ぐらいしか飲まないくせに。しかし「シャンパンシャンパン」と五月蝿いことこの上ないので、やむなく一軒のカフェに席を取った。


「AU CRIEUR DE VIN」 ここは熊を連れてくるような店ではなく、可愛いあの娘と待ち合わせたり、和やかな午後を過ごしたりする場所だ。テーブルの向こう、あの娘の悩ましい視線に気付かない振りをする、そんな大人の僕に似合う店だ。
しかし野郎は、躊躇いも戸惑いもなく、自家製のパテとかチーズの盛り合わせとかを頼みはじめた。
自家製のパテ

チーズをつまむ熊
そしてプレミアムモルツを飲み干しながら、また騒ぎ始めた。
「シャンパンシャンパン、シャンパン」

ワ インリストを見ると、シャンパーニュの銘柄は見当たらなかった。が、ロワールのVouvray Sparkling "Bredif Brut"(ヴーヴレイ・スパークリング・ブレディフ・ブリュット)がある。おお、これはなかなかしっかりした好みのスパークリングだ。

これに合わせたひと皿は.... おお、黒潮洗う伊勢志摩の海が育んだ、牡蛎。
オイスター
生でも、とあったが蒸し焼きにしてもらう。ぷるんぷるんのぶるんぶるんに張りつめた身は、鶏卵大。頬張るとその身から溢れ出たジュースが、海の恵みが響きわたり奏でられる。

その瞬間。眼がくらむ。

なぜか視神経をねじられたような錯覚が後頭部を疾る。こんな、意識が遠のく程の味わいに身を委ねながら、ロワール、ヴーヴレイのグラスを傾ける。ふたたび、 また意識が遠のく。味覚、嗅覚の、僕のデリケートなスイッチが全力で叩かれる。弾かれる。翻弄され突き上げられ押しつぶされ、僕は牡蛎とロワールに敗北した。


オイスターひと粒
ほら、あなたは勝てるだろうか?



夜の帳にはまだ早い。「築地市場食堂」へと移動。鮪の中落ち、真鯛の兜焼きなどを堪能し腹をくちくする。熊の野郎は現役の小屋番で、もうすぐ上高地からヘリコに乗せられて稜線近い小屋に飛ばされる。ヘリコから突き落された後は、何週間も雪を掘って雪を掘って、そして雪を捨てにいって、小屋を掘り出さなくて はならない。道にもステップを切ったりベンガラを撒いたり、夏が終わるまで降りて来る暇もない。だから新鮮な魚介を喰う必要があると力説している。

夕暮れを迎えたようだ。源池の「とんぼ」に行こう。あの綺麗な女将に(と書くには若いが)逢いたい。さらに杯を重ね、熊野郎は新鮮な魚介が、と言い続けている。その後、上土の「彗星倶楽部」へ移ってまた飲む。飲み過ぎて椅子から墜ちかけたりしながら、たしかもう一軒寄って歩いて帰った。この辺は記憶がないが、布団に 潜り込みながら午前三時を指した時計に、呆れたことを覚えている。正午前から午前二時ごろまで、延々と飲み続けたわけか。

貴重な休日を飲みつぶれて過ごすなんて、おいらもしあわせだわ。


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