風はあたたかく、ぬくぬくとした陽射しも心地よい朝だった。僕は國境(くにざかい)の尾根を、のんびり歩いていた。
池の畔から社務所を過ぎてひと登りする。そこは千鹿頭山(657.8m)という四等三角点の置かれた小高い丘。かつてお宮のお社はこの地にあったと案内板の説明があった。
いまでもこのピークには「先の宮」の地名が伝えられている。

じつはこのお宮、社殿がふたつある。
かつて戦国の頃、この地は信濃守護である小笠原氏が治めていた。このお宮からも目と鼻の先の尾根には、小笠原氏本拠とされる「林城跡(長野県指定史跡)」という山城があったのだ。
この小笠原氏、戦国末期の動乱で甲斐の武田に滅ぼされかけるが家を再興し、のちに信州松本十万石の安堵を得る。が、元和四年、領地の一部が「高島藩領東五千石」として隣の高島藩諏訪家に移されてしまう。このあたりの、お江戸千代田のお城の奥深く、幕閣たちがめぐらせた政治的あれこれには興味も無いが、とにかく松本藩の領地が他家に移された。
この小笠原氏、戦国末期の動乱で甲斐の武田に滅ぼされかけるが家を再興し、のちに信州松本十万石の安堵を得る。が、元和四年、領地の一部が「高島藩領東五千石」として隣の高島藩諏訪家に移されてしまう。このあたりの、お江戸千代田のお城の奥深く、幕閣たちがめぐらせた政治的あれこれには興味も無いが、とにかく松本藩の領地が他家に移された。
移された折りの境界線、つまり國境がこのお宮のある尾根と定められた。
お宮がふたつの藩領に跨がることになった千鹿頭神社さん。両方のお殿様から社殿の寄進を受け、正徳と元文の時代の社殿が約三百年を経たいまでも残る。上の写真、右が松本藩、左が高島藩の寄進を受けたもの。
社殿を後にして、尾根を歩く。登って行くと展望台という東屋のある場所に出る。
みなさん。冬の終わりの常念山脈とお槍さまの様子をご覧ください。
穂高のピークのひとつが顔を出して件について、これはあとで。
針ノ木岳と蓮華岳、そして僕の棲むまち。うわっと、うちの屋根写ってるし!
展望台からさらに上へ。尾根の道は塹壕状にえぐれていて、古い時代から往来が激しかったことを窺わせる。もしかしたらここにも中世から戦国にかけての山城があったのだろうか。それとも御柱の伐り出し、林産物や薪炭を求めて、あるいは鉢伏山・三峰を越えて和田峠までの道があったのか? 和田峠は黒燿石の産地として知られる。つまり、縄文の頃の最重要戦略物資が出た場所だ。謎はロマンをかき立てる。
嗚呼はるのひかり。
僕はソフトシェルばかりかグローブも外していた。
いや、僕だって普通にそうされたいし。
そして着きました本日の目的地、雪から掘り出したのは三等三角点「瑞光寺」、973.3m。
瑞光寺の由来についてはまだ調べていない。たとえば小笠原氏のころ、古い時代の山麓にお寺でもあったのだろうと推察できるが、いまは白紙である。
國境の尾根は、鉢伏山に至る。誰のものだろう、消えかけたトレースはなおも続いていた。
げひげひげひ。旦那、アレが見たいんでしょ?
はぁはぁはぁ....。市街地から400m登ったここ、標高千メートル近いとこうなる。常念山脈に隠されていた槍穂高の主脈が望まれるのだ。左奥に中岳、大喰岳、飛騨乗越とお槍さま、常念。はぁはぁはぁ。
あぐうぅ。見えてるし。
左に明神のトゲトゲ、大滝山の肩の上に前穂、ジャンダルム、ロバの耳、奥穂、大滝山、はぁはぁはぁ。
山の神さま有り難うございました。國境の尾根に春の兆しを恵んでいただきました。
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