信州の春は、弾けるように爛漫を迎える。丘の上の、あの桜に会いに行こう。
前夜のウイスキーが過ぎたのか、酒を携えてくる気にはならなかった。
いや、そうではない。目覚めに空腹を覚え、勢いでかき喰らった朝飯のせいか。もう若くはないのだ。早朝から大きなどんぶりに「これでもか」と盛った炊きたてのぬくい飯と穴子の蒲焼きは、重すぎた。
うむ。朝飯には、あまり向いていないような気がする。
家からぶらぶらと、歩き始めて気づく。水路に、せせらぎの煌めきがまぶしいのだ。心地よく響く水音が、田植えの時期が近いことを知らせてくれる。ふと見上げた空を、燕が舞っている。
松本郊外、岡田塩倉の池の畔に着いた。対岸の丘の上の桜も見えてきた。おお、咲き始めているようだ。
果樹が植えられた丘の上。古い観音堂の傍らに、その枝垂桜はある。かつては左右にあったのだろうが、向かって右の樹は根元が残されているだけだ。それでも、圧倒的な存在感で丘の上から僕を見下ろしていた。
昨年も、その前にもこの枝垂桜のことを書いた。僕はこの樹に会いに来ると、数分は言葉も感慨も喪ってしまって、ぽかんと口を開け、黙って見上げているしかない。今日も同じだった。しばらくは、写真を撮る余裕すらなく、眺めていた。
満開は数日のうちだろう。次の週末では遅いかもしれない。
桜色の天井。満開となったこの桜の下に立つと、昨年もその前にも、全身の肌が粟立ったものだ。ことし、二分咲きの下に立っても同じだった。咲き具合じゃないのだ。
これは先月の観音堂の様子。芥子望主山へぶらぶら出かけた帰りに寄ってみた。
お堂の東側のソメイヨシノ。
いったい誰が、なにが樹々に春を知らせるのだろう。数日前には雪が降ったり、また翌日には南風が吹いたり、季節は揺さぶられるように移ろう。それなのに樹々たち花たちはほころびる時を待ち、そしてあらかじめ知っているかのように一斉に咲く。思えば不思議なことではある。
お堂の裏手に回る。念仏供養塔と道祖神越しに、松本の市街地と鉢伏山が見えている。弘法山といって、おびただしい数の樹が植えられた桜の名所があるのだが、あちらも咲き始めたようでうす紅色に染まっている。賑やかなのだろう、向こうは。こちらの丘は、僕独り。
またこうして、春のひかりの中で塩倉山海福寺観音堂の枝垂桜に会えた。そしていつかお迎えが来る時は、いくたびか眺めたこの桜の情景を思い出しながら、僕は安らかな気持ちでお釈迦様の弟子にしてもらおう。
これではなく、JD・BBQの写真をはよ!
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