その牛すじ肉との出会いは、暮れも近い師走の19日、土曜日の夕刻だった。仕事場からの帰り、肉売り場を覗いた僕を手招きしていたのは、100g当たり178円でパック詰めされた国産の牛すじ。手羽先でも合い挽き肉でもない、牛すじ肉だった。
もちろん僕は、世の中のほとんどの人がそうであるように、牛すじ肉が大好きで、とりわけ国産の牛すじ肉を好ましく思っている。そして皆がやるように、この好ましい牛すじ肉を柔らかく炊いて、信州の地酒のぬる燗や上質な蕎麦焼酎のアテにする。
ただ少し皆と違うのは、僕は「牛すじ肉を独占したい」という欲求が強くて、家人や婆さまの口には、ひとかけらも分け与えることをしない。とにかく、僕が大好きな牛すじ肉と12月19日の土曜日に出会うことができて、僕はこの牛すじ肉を柔らかく炊いて、独り占めしようと企てたという訳だ。
牛すじ肉は、そのままでは灰汁が強いから下茹でする。鍋にたっぷりの湯を沸かして、ひと口に切った好ましい牛すじ肉を湯がいて、水に晒す。さらした後で、蜂蜜と味醂、日本酒と少しの水で、柔らかく炊く。このとき気を付けなくてはならないのが、まだ塩を入れないこと。料理酒を使うと塩気が混じるから使ってはいけない。灰汁が出たら掬い、柔らかくなるのを待つ。ごりごりしたすじの硬いところに竹串が入るくらいになったら、根菜と蒟蒻、茸を加える。後は弱火で少し炊いて、味噌を加えるか、醤油にしようか迷う。定番の味噌炊きが最後まで主張を貫くかに思えたが、僕は「白出汁」という誘惑に負けた。
白出汁を少し注いで味を見る。そうだ、醤油を数滴たらそう。味醂も少し加える。
こうして、好ましいこと限りない国産の牛すじ肉は、ある年の暮れにある台所で、ひとつの鍋の中で柔らかく炊かれ、根菜と茸と蒟蒻を添えられ、白出汁を基本とした味わいにまとめあげられた。残されたミッションは、この好ましい牛すじ肉を蹂躙し、攪乱し、諏訪の銘酒『舞姫』との競演を愉しむだけである。
しかし、この牛すじ肉の煮込みは、一度冷ましてやらねばならない。味わい深く染み通り、僕の舌を喜ばせるためには。だから鍋ごとひと晩、しっかり冷ます。
明くる日曜日の朝。ある作業があって僕は草刈りをしていた。真冬の草刈りと聞けば訝しく思われる向きもあろう。これは信州の伝統行事で小正月に行われる『三九郎』という道祖神の火祭りの準備なのだ。作業後、仲間同志で酒を飲んで、御馳走が振る舞われた。腹をくちくして微醺を帯びて帰宅し、飲み直したのに牛すじのことを忘れた。間抜けである。
月曜日の夜。つまり好ましい牛すじ肉が炊かれて翌々日のことである。僕はついに、禁断の鍋を開闢し、牛すじ肉を味わい尽くすことにした。まず、好ましい牛すじ肉を温めながら、葱を刻む。そしてS&Bの『柚子こしょう』を開封する。器に牛すじ肉を盛る。葱を載せる。柚子こしょうをチューブからひねり出す。蕎麦猪口には諏訪の『舞姫』がなみなみと注がれている。箸を持った右手は高々と掲げられ、箸先は真っ直ぐに牛すじ肉を差している。それは、獲物を狙って急降下する猛禽類さながらの様相を呈している。次の瞬間、この限りなくも好ましい牛すじ肉は、僕の口に放り込まれた。
う、美味い。
うますぐりる。まうい。
出会ってから実に、まる二日の後の出来事であった。
もちろん、味わうのは僕独りである。何故ならばこの牛すじ肉は僕のものであり、僕が味わうために仕入れ、調理し、整えたものであるからだ。
物語はここで終わらない。始まったばかりである。
ひと鍋に炊かれた僕の牛すじ肉のその後を、追いかけてみよう。
この僕の牛すじ肉は、大きな密閉容器に移され、冷蔵庫の「僕専用の棚」に格納された。僕専用の、というのは文字通り僕専用で、家人や婆さまも絶対に手を出してはならないアンタッチャブルな区画のことで、何があるかを見ることも許されてはいない。そんな場所で、牛すじ肉は大切に保管されたのである。
しかし、如何に冷蔵庫での保管とは云え、雑菌の繁殖など衛生上の問題が発生する。したがって二、三日に一度は「火入れ」を行い、傷まないようにしなければならない。12月23日の夜に行われた、実際の火入れの様子を見てみよう。
鍋にあけられた僕の牛すじ肉の煮込み。コラーゲンが融け出ているので、ぷっるんぷっるんである。容器の形状そのままに、巨大なキューブとして鍋に鎮座している。これを一度溶かし、ひと煮立ちさせ、少し味わって残りをまた冷ます。
ここで厄介な問題が起きてしまった。突然の入院である。
ある大きな病院のベッドで、僕はたったひとつのことだけを考えていた。冷蔵庫の、僕の牛すじ肉である。点滴の針が穿たれた左腕を睨みながら、病室の天井を見上げながら、僕は僕の牛すじ肉に思いを馳せていた。思いを馳せる、というのは間違いか。妄執にも似た歪んだ心配を注いでいた、と書くべきだろう。あるじの不在に、寂しさに震える僕の牛すじ肉。きっとぷっるんぷっるんに、冷めたキューブを震わせているはずだ。暗い冷蔵庫の中。隣に並ぶ保存食の瓶たちは、慰めてもくれない。きっと悲しい思いをしているだろう。なんと不憫な僕の牛すじ肉。
一秒一秒の時計の針を刻みながら、僕は僕の牛すじ肉のことを案じていた。
家人や婆さまに食べられてしまうから?
いや、それは有り得ない。
僕専用の棚の安全保障は完璧である。
僕が心配なのは、腐敗である。
僕の大切な牛すじ肉が傷んでしまって食べられなくなるなんて、耐えられない。
僕の牛すじ肉を腐敗から守る方法、そのことに考えを集中させた。まず思い浮かんだのは、家人に連絡を取って火入れを施してもらう、というアイディアだ。何度か電話のダイアルまでしかけたが、これは断念した。いくつもの理由があったが、どうしても妻に借りを作るわけにはいかない。
次に思い浮かんだのは、婆さまに頼むというアイディア。しかしこれも思いとどまった。家人や婆さまに「火入れ」を頼んだ場合、最悪なことが起きる。それは冷蔵庫の僕専用の棚の安全保障が破綻することを意味する。「パパから頼まれたから....」という前例を作ってしまえば、今後容易に敵対勢力の侵攻を許してしまうことを意味するからだ。
僕の牛すじ肉の保存という事柄が、僕の家庭と家族の環境というバックストーリーにもみくちゃにされている。僕の牛すじ肉がおかれた状況は、あまりにも不幸すぎる。僕は知恵を尽くした。脳漿を絞り切る思いで、遂に最善の解決策を見いだしたのは、入院翌日の夜ふけだった。そしてそれは、天啓だった。
入院三日目の朝が訪れた。
その日のうちには、僕の牛すじ肉に火入れを行わなくてはならない。僕は10歳の娘に、メールを送った。
冷蔵庫のパパの棚に
青い容器があるから
電子レンジにフタのまま入れて
200wで15分チンしてね
昼過ぎ。娘が病室にやって来た。父の書籍などを携え見舞いに来たのだ。家の近くからバスに乗り、松本駅のバスターミナルで乗り換え、病室に辿り着くという冒険である。まだ10歳、独りでバスに乗ることも、ましてや乗り換えも初めてである。病院を訪れて混雑する受付で病棟を訪ね、ナースステーションで病室を聞き出して、僕の目の前にはにかんだ表情で立っていた娘の姿は、文字通りの天使であった。
僕は病室までの大冒険を果たした娘を讃え、ねぎらい、感謝を伝えた。もちろん、抱きしめながら、あのことを尋ねることを忘れなかった。
青いフタの入れ物、分かったかい?
「ちゃんとやったよ。いまはもう冷ましてるよ」
神は見捨てなかった。
僕と僕の牛すじ肉は、救われたのだ。
ひとつの鍋に炊かれた僕の牛すじ肉。その味わいの絶頂期に、あるじの入院、不在という予期せぬ出来事を迎え、腐敗の危機に直面する。万策尽きたかに思われたある日、10歳の娘の活躍で窮地を脱する。まさに波瀾万丈の運命をたどった僕の牛すじ肉は、もちろん傷むことなく、冷蔵庫の然るべき場所で、僕の帰りを待っていてくれたのである。
退院後、年越し新年の数日はお粥で過ごし、元旦も黒豆を数粒齧っただけだった。三日になってようやく、そろそろ、と近所の丘と湖を巡る長い散歩に出かけ、帰宅。『舞姫』は入院前に飲んでしまっていたため『大雪渓 特別純米酒』の封を切る。まだ明るいが構わん、正月だ。しばらくぶりの酒だ。そして僕の牛すじ肉だ。
ああああ..... 美味い。うますぎる。
師匠、今回の記事は、最高でした。
返信削除入院もこの記事のためにしくんだのではとおもえるほど、、、、、
入院を知っている私としては、果たして牛筋肉の運命はどうなることかとハラハラドキドキでした。いや、思わぬ助っ人に助けられてメデタシメデタシでした。
ちなみに、牛筋肉なるものこちらではカットの仕方が違うのか、そういう形では手に入らないのが残念です。果たして牛筋とは、どの部位でしょうか?
こちらでは、アキレス腱はあの白い筋だけ別で売っています。あとは、シンと呼ばれるすねの肉でしょうか。
じっくり煮込んだ牛筋がうまいという話はあちこちで耳にするのですが、何分こちらではその名称と切り方では売っていないので、、、、、
アドバイスのほどよろしくお願いします。
アラスカの兄貴!
返信削除すいませんこんなに遅くなってしまって。
いま、日本は大変なことになってまして。
まず、この大雪であたり一面真っ白で、
今朝も里山にワカン担いで行ってパウダー喰ったり。
それに僕の通勤用ミニバイクの故障で遠い駅まで歩いたり....
そんなこんなで、デスクに着く時間も取れなくて申し訳茄子!
>入院もこの記事のためにしくんだのでは
うははははは、そう読まれましたか!
これで新しい恋人が出来て、その恋人が入院中に知り合った看護士さん...
いえ、そう言う展開は予定してませんので。
>果たして牛筋とは、どの部位
全身のあちこちのようであります。
横隔膜とかも食用にするそうですから、たぶん混じるでしょう。
枝肉を切り出していった余りになるのではないでしょうか。
アキレス腱は煮込んで美味い、と聞きます。
フレンチでもたしか、そんな料理がありましたね。
僕の牛すじ煮込みは、どちらかというと「ガード下」とか「立ち飲み」
って領域の味付け、位置づけだと思います。
アキレス腱とかも、味噌や出汁で煮込んでみたいものです。
しかし兄貴!
サーモンを自分で釣って塩鮭こしらえるとか、反則じゃないですか!
アドバイスのほどよろしくお願いします。
むむ、中立国経由でなら侵攻の突破口が得られるやも知れぬ
返信削除これは女王陛下に急ぎお伝え・・うわなにをするくぁwせdrftgyふじこlpw
画伯!
削除ご当地の様子は如何ですか?
信州まつもとは、庭も野山も真っ白です。
今日も雪遊びを満喫してきました。
ご様子お聞かせください。