窓の外には夜明け前の薄闇が広がっているようだ。目頭からも血が溢れてきて、視界は赤かった。裸電球の橙色の光と、窓の外から染み込んで来る薄やみでは、眼前の世界の色彩も不確かなものだ。それでも僕は、何が起きているのかをできるだけ正確に理解しようと努力を続けていた。そしてその努力が、もうどうでもいいもののように思えてきた。鮮血に染まった布団の上で正座したまま、鼻と口から溢れ出る血をバスタオルで受けながら、さっきまで操作不能だったアイフォーンを手に取った。スリープを解除して、ホームボタンを押した。血にまみれたひと指し指では指紋が認識されない。それでも、液晶に着いた血液は乾きかけていて、なんとか6桁のパスコードを入力することができた。
半分、あきらめかけていた。これだけ多くの血が流れてしまえば、無事では済まないかもしれない。いま、どんな様子なのだろう。鏡は血で汚れて何も写さない。アイフォーンで顔写真を三枚撮った。あとから見たら、鼻に詰めたティッシュは真っ赤で、両先端から鮮血が垂れている。真っ赤な涙が溢れていて、頬も血に染まっている。口から吐いた血液が顎から首も胸も朱に染め上げている。指を濡らす血のせいか、四枚目は画面が反応せず、撮れなかった。そのとき、喉に逆流して気管に入った血液で、僕は大きく咳をした。血しぶきがそこいら中を汚し、障子にまで飛んだ。飾ってある、長男坊が生まれた時の写真にも、血が飛んでいた。これほどまでに、途方に暮れたことはなかった。とうとう僕は立ち上がって、畳を汚しながら廊下に出た。そして二階で眠っている娘に呼びかけた。
娘と一緒に婆さまも起き出してきた。階下の気配で尋常ならざる事態を悟ったのだろう。さっと着替えて病院へ連れて行くと言う。僕は貴重品とティッシュを一箱、新しいバスタオルを手にクルマに乗り込んだ。美ヶ原の向こうから昇ってきた朝日が街を照らしていた。救急外来に着くと、僕は婆さまの付き添いを断り、ひとり受付に向かった。
医療スタッフたちは慣れた様子で処置を進めていった。吸引したり血圧と体温を測ったり質問をしたり、いつもと同じ仕事をしている様子だった。僕は安心感を得るまでには至らず、本当に血が止まるのか、不安なままだった。「テラマイ!」何か指示する医師の声を覚えている。鼻に詰め物をされ、顔を拭われ、ベッドの角度を調節され、そしてカーテンが閉められると、意識は暗黒に落ちていった。
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時間の感覚はなかったが、少し経ったようでドクターが僕を起こしに来た。この後のこと、診察とか帰りの交通手段のこととか、そういったこと。僕は曖昧に返事をして、言われた通りに従った。入院の必要はなく、昼には帰宅することができた。血まみれのシャツのまま、救急外来口からタクシーに乗り込んで自宅まで運んでもらった。運転手氏には、きっと喧嘩か傷害事件ぐらいには思われたことだろう。二日後にもう一度受診し、処方された止血薬を数日間服用した。
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はじまりは、突然の出血だった。
真夜中、溢れ出る鼻血にティッシュを詰めて、困り果てた僕はMacのキーボードを叩いた。
「鼻血 止まらない」
あるページを読んでいると、口から吐き出された血しぶきで、キーボードが使えなくなった。覚えておこう、酷い出血に、キーボードは役に立たない。そうだキーボードの替えがある。DOS/V機というか、Windows機用のだ。しかし新しい、開封したてのキーボードも血液に濡れて使えなくなってしまった。やむなく、アイパッドで調べ直そうと試みた。両手が血液にまみれていて、画面がタップできない。タブレットも役に立たないのだ。アイフォーンでも同じだった。結局、大量の血液を溢れさせながら、僕は外の世界と交信する手段を失っていった。それでも、鼻翼の上の方を押さえ続けていると、やがて出血は止まったようだった。座卓の辺りは、飲み込んでしまった血液を吐いた汚物と、だらだらとこぼれた鮮血に沈んでしまいそうだった。それでも、もの凄い疲労感と安堵感からか、僕は書棚にもたれかかったまま気を失っていたようだ。
そして二時間後には、既に書いたように、出血が再開されるのだ。
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いくつか、日常が変わってしまった。いつも防水のスタッフバッグを持ち歩いている。タオルと止血剤、ビニル袋などがおさめられている。突然の出血に備えているのだ。ドクターたちは誰も、出血の原因について語ってくれなかった。僕が求めていたのは、「運動しなさい」「酒を減らしなさい」「疲労を解消しなさい」そういった助言か、根本的な治療だった。けれどもそんな助言も治療もなく、僕はどうしていいのか判らずにいる。もっとも困ったのは、夜が恐ろしくなってしまったことだ。就寝中にあの悪夢が三たび、そう考えると、熟睡することができなくなってしまったのだ。だから夜のモルトも、のんびり浸かるバスタイムも、僕の習慣から棄ててしまった。山に入るなんて、もう恐ろしくてできやしない。旅をするなんてことは、考えたくもない。何もかも失ったような気もするけれど、数日前に届いたタニタの血圧計が、僕のそばに居てくれる。