2017年9月23日土曜日

二度目の出血に、僕は途方に暮れる


二度目の出血も、突然来た。

窓の外には夜明け前の薄闇が広がっているようだ。目頭からも血が溢れてきて、視界は赤かった。裸電球の橙色の光と、窓の外から染み込んで来る薄やみでは、眼前の世界の色彩も不確かなものだ。それでも僕は、何が起きているのかをできるだけ正確に理解しようと努力を続けていた。そしてその努力が、もうどうでもいいもののように思えてきた。鮮血に染まった布団の上で正座したまま、鼻と口から溢れ出る血をバスタオルで受けながら、さっきまで操作不能だったアイフォーンを手に取った。スリープを解除して、ホームボタンを押した。血にまみれたひと指し指では指紋が認識されない。それでも、液晶に着いた血液は乾きかけていて、なんとか6桁のパスコードを入力することができた。

半分、あきらめかけていた。これだけ多くの血が流れてしまえば、無事では済まないかもしれない。いま、どんな様子なのだろう。鏡は血で汚れて何も写さない。アイフォーンで顔写真を三枚撮った。あとから見たら、鼻に詰めたティッシュは真っ赤で、両先端から鮮血が垂れている。真っ赤な涙が溢れていて、頬も血に染まっている。口から吐いた血液が顎から首も胸も朱に染め上げている。指を濡らす血のせいか、四枚目は画面が反応せず、撮れなかった。そのとき、喉に逆流して気管に入った血液で、僕は大きく咳をした。血しぶきがそこいら中を汚し、障子にまで飛んだ。飾ってある、長男坊が生まれた時の写真にも、血が飛んでいた。これほどまでに、途方に暮れたことはなかった。とうとう僕は立ち上がって、畳を汚しながら廊下に出た。そして二階で眠っている娘に呼びかけた。



娘と一緒に婆さまも起き出してきた。階下の気配で尋常ならざる事態を悟ったのだろう。さっと着替えて病院へ連れて行くと言う。僕は貴重品とティッシュを一箱、新しいバスタオルを手にクルマに乗り込んだ。美ヶ原の向こうから昇ってきた朝日が街を照らしていた。救急外来に着くと、僕は婆さまの付き添いを断り、ひとり受付に向かった。

医療スタッフたちは慣れた様子で処置を進めていった。吸引したり血圧と体温を測ったり質問をしたり、いつもと同じ仕事をしている様子だった。僕は安心感を得るまでには至らず、本当に血が止まるのか、不安なままだった。「テラマイ!」何か指示する医師の声を覚えている。鼻に詰め物をされ、顔を拭われ、ベッドの角度を調節され、そしてカーテンが閉められると、意識は暗黒に落ちていった。


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時間の感覚はなかったが、少し経ったようでドクターが僕を起こしに来た。この後のこと、診察とか帰りの交通手段のこととか、そういったこと。僕は曖昧に返事をして、言われた通りに従った。入院の必要はなく、昼には帰宅することができた。血まみれのシャツのまま、救急外来口からタクシーに乗り込んで自宅まで運んでもらった。運転手氏には、きっと喧嘩か傷害事件ぐらいには思われたことだろう。二日後にもう一度受診し、処方された止血薬を数日間服用した。


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はじまりは、突然の出血だった。

真夜中、溢れ出る鼻血にティッシュを詰めて、困り果てた僕はMacのキーボードを叩いた。
「鼻血 止まらない」
あるページを読んでいると、口から吐き出された血しぶきで、キーボードが使えなくなった。覚えておこう、酷い出血に、キーボードは役に立たない。そうだキーボードの替えがある。DOS/V機というか、Windows機用のだ。しかし新しい、開封したてのキーボードも血液に濡れて使えなくなってしまった。やむなく、アイパッドで調べ直そうと試みた。両手が血液にまみれていて、画面がタップできない。タブレットも役に立たないのだ。アイフォーンでも同じだった。結局、大量の血液を溢れさせながら、僕は外の世界と交信する手段を失っていった。それでも、鼻翼の上の方を押さえ続けていると、やがて出血は止まったようだった。座卓の辺りは、飲み込んでしまった血液を吐いた汚物と、だらだらとこぼれた鮮血に沈んでしまいそうだった。それでも、もの凄い疲労感と安堵感からか、僕は書棚にもたれかかったまま気を失っていたようだ。

そして二時間後には、既に書いたように、出血が再開されるのだ。


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いくつか、日常が変わってしまった。いつも防水のスタッフバッグを持ち歩いている。タオルと止血剤、ビニル袋などがおさめられている。突然の出血に備えているのだ。ドクターたちは誰も、出血の原因について語ってくれなかった。僕が求めていたのは、「運動しなさい」「酒を減らしなさい」「疲労を解消しなさい」そういった助言か、根本的な治療だった。けれどもそんな助言も治療もなく、僕はどうしていいのか判らずにいる。もっとも困ったのは、夜が恐ろしくなってしまったことだ。就寝中にあの悪夢が三たび、そう考えると、熟睡することができなくなってしまったのだ。だから夜のモルトも、のんびり浸かるバスタイムも、僕の習慣から棄ててしまった。山に入るなんて、もう恐ろしくてできやしない。旅をするなんてことは、考えたくもない。何もかも失ったような気もするけれど、数日前に届いたタニタの血圧計が、僕のそばに居てくれる。






2017年9月17日日曜日

昼下がりの江戸銀


坂道を下ってバス通りを渡る。ひとり、角の白い暖簾をくぐると、そこにはたましいを震わせる味わいが待ち受ける、魔界だ。






「いらっしゃい、大間の本鮪が入ったよ」

俺はカウンターの椅子を引きながら「すこし切ってくれないか」と主人に告げる。そして冷えた地酒を頼むことも忘れてはいない。主人は大間の本鮪を引きながら呑気なことを言う。

「昼間っから飲めるなんて、良い身分だねえ」

俺は静かに切り返す。「ふふふ、自分へのご褒美さ」

タフな週末だった。地区行事のために、土曜日には30人前のカレーを作り、夕方は焚き火に飯ごうを載せて飯を炊いた。今朝はそれら鍋釜を汚した煤を洗い流し、すべて片付け終えたのは日曜の昼だ。これ以上、寿司屋の暖簾をくぐるのにふさわしい状況はあり得ない。


大間の本鮪の赤身は、噛み締めるほどもなくほどけて、俺の脳髄を融かしていった。冷えた地酒『岩波』と響き合う。カウンター席で俺は、身悶えていた。





嗚呼辛口よ、響くがいい。奏でるがいい。





豆鯵の南蛮よ、俺はむせび泣く。





四合を空けて、握りを頼む。



このかんぴょうが絶妙なのだ。そして齧りかけの卵焼き、真っ先に箸が出てしまってぱくぅである。落ち着き払った振りをするのは、もう限界だ。「あぐうぅ」「うはうぅ」と奇怪な呻きを漏らしながら、俺は握りにぱくつく。


いきなり主人が斬りつけてきた。

「こはだの締まり具合、試してみる?」



もう恍惚となる締め具合。選び抜かれた素材を、技がここまで磨き上げるのだ。たまらん。





松本江戸銀。お近くの方は、ぜし。












2017年9月3日日曜日

平出の泉の畔で考えた


わたしはエメラルドグリーンの水を湛えた泉の畔に立ち尽くしていた。陽光は眩しく、蝉の声が森中に響く、夏の正午近くだった。泉の底の白っぽい砂が見えている。二羽の水鳥が浮かんでいる以外、魚影など生き物の気配は伺えない。現実離れした色彩に戸惑いながらも、ここを訪れることができたことを素直に喜んでいた。







となりまちの塩尻、平出遺跡に足を向けた。遺跡公園近くの平出博物館で、『顔・かお・貌』という企画展が催されていたからだ。土偶など縄文から古代にかけての遺物を展示し、大昔の人々による表現の一端に触れるという企てだろう。


博物館を訪ねながら、遺跡公園にも寄ってみた。復元住居にはあまり興味がなかったのだが、なんとなく、遺跡から眺められる風景を確かめてみた。





スマートフォンのカメラでは写し込めていないのだが、画像中央に穂高の峰嶺が写っている。西穂から奥穂前穂明神までの鋭利なスカイラインは、太古の村人たちにどのような想念を抱かせたことだろう。

晴天の冬の早朝。この近くの場所から、純白の中に黒々とした岩壁を覗かせてそそり立つ穂高を眺めたことがある。前山となっている島々谷の両岸の山々は、まだ夜の闇を引きずっていた。その向こうに、岩と雪の伽藍がほの白く浮かぶ。

すると突然、奥穂のてっぺんが薔薇色に輝き始め、ジャンダルム、北穂と続き、やがて前穂あたりも朝日に染まっていく。やがて発光するかのようなまばゆさで、穂高が燃えはじめる。モルゲンロート。その朝のわたしは、全身に鳥肌を覚えた。太古の村人たちも同じように感じたのだろうか。神々の座を感じ取ることがあっただろうか。






復元された住居の向こうに、比叡ノ山が見える。これから訪おうという場所である。






遺跡公園の南の集落には、本棟造りという伝統的な建築様式の民家が多い。そんな集落の中央を、清冽な流れが奔る。地元の人々は「かわ」と呼んでいるようだ。

「かわ」は、比叡ノ山の泉から流れ出している。流れを辿って、泉を目指そう。





辻の流れの傍らには、お地蔵さまや道祖神、庚申の碑などが立つ。集落で連綿と受け継がれてきた「いのり」のかたちを見る思いである。





夏の日差しの下、せせらぎの響きが心地よい。平出の遺跡に太古の人々が暮らしていた昔から、この「かわ」があった。数千年もの間、この音が人々の暮らしの中にあったはずだ。





流れをせき止めた水仕事のための足場がある。ここでは「どんど」と呼ばれている。





水を汲んだり菜を洗ったり、暮らしのあらゆる場面で活かされていると聞いた。




流れを遡って来ると堤があり、その先に泉の水を満たした池があった。ここでわたしは想念をまとめようとしばらく放心していた。





池の山際に水神さまだろう、祠が祀られ、そのあたりから水が湧き出ているのだろう。

わたしは、泉の、池の畔に佇んでいた。太古から人々の暮らしを育んできた泉の水。五千年という時の流れの中、静かにこんこんと湧き続けていのちをつないだ水。そう、この水の恵こそが、いのちの源泉だったのだ。





泉の先に博物館の建家が見えていた。『顔・かお・貌』展は残念ながら9月3日まで。





期待いっぱいに、エントランスをくぐる。



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土偶を見てみたい、という気持ちは、ここ数ヶ月の間にゆっくりと膨らんでいた。少し前に眺めた書籍があるのだが、ここに掲載されていた土偶の表情が、わたしに刺さったのだ。




この書には、諏訪、茅野、富士見辺りの八ヶ岳山麓で栄えた縄文文化のことについて書かれている。ビジュアルも豊富、なかなか良く出来た本である。





これ。国宝として知られる『縄文のビーナス』、その少しとぼけたような表情が好きなのだ。縄文人は、どのような思いを込めてこの表情を創り出したのだろう。その答えを、少なくともヒントを得たいというのが、わたしの気持ちであった。


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日曜日、日盛りの館内は静かだった。見学者は、わたし独り。撮影を禁じる掲示物はなかったが、わたしは何も写さなかった。博物館や美術館という場所は、シャッター音がふさわしい空間とは考えていないからだ。そのかわり、見た。眺めて考えた。誰も居ない分、自由に見た。何度も同じ展示の前に立った。横から覗いたり下から見上げたり、自由だった。

ビーナスのレプリカにも逢えた。この表情が、わたしに、何かを伝えようとしている。写真で見た時からずっと続いている、ビーナスから発せられた語りかけ。それが何かであるか、わたしは受け取ることができていない。ビーナスは何を語りたいのだろう。何かを、間違いなく、わたしに伝えようとしてる。

驚愕したことがあった。

同じ作者の手になるとしか思えない、同じ顔をした、同じ表情の土偶が展示されていた。平出遺跡から出土したものだという。何と云うのだ、これは。同じとぼけた顔。口はぽーんと少し開いている。眼は斜めに彫り込まれている。どこか小動物を思わせるような可愛らしさがある。





土器の装飾にも、似たような表情を見ることができる。何かが訴えかけてくる。展示されている土器にも同じ表情。なんだろう、縄文人が土偶や土器の装飾に施した、この表情は。


考え込んだが、答えは何も出てこない。
だまって展示を見ていた。立ったり座ったり、2時間近くを過ごした。そして受付職員の青年に礼を言って館外へ出た。少し離れた駐車場でカブにキックを見舞い、また泉のほとりに立った。でも答えは出ない。わたしは家路に着いた。



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帰宅して一杯ひっかけ、散歩に出る。家の前の果樹園を通り抜け、田んぼの傍らに立った時だ。いろんなモノコトが脳内で渦巻いていた。



まず、山羊に会った。




次に、稲穂の実りを見た時に、全身に電流が流れたかのような衝撃を受けた。


遠い、断ち切られた向こう側じゃない。水槽の中の魚たちでもない。檻の向こうの動物でもない。ましてや白亜紀の恐竜じゃない。

わたしは、どうしようもない間違いを犯していたのだ。特に根拠も理由もなく、わたしこう考えていた。

にっぽん人の歴史は、コメの水耕栽培や鉄、青銅器の文明とともに始まった。それ以前には、こんにち縄文文化と呼ばれる漁労採集生活を行っていた、古いタイプの人々が列島に暮らしていた。


これは間違いだ。リアルな自分という存在と、今日博物館で出会った縄文の人々が、完全に分断されていたのだ。違う。縄文人は、水槽の中や檻の向こうにある「展示物」なんかじゃない。わたしの、ルーツだ。

何故そう思わなかったのだろう。縄文時代の終わり近く、水耕栽培のはじまりのころ、南方や北方から海を渡ってやって来た人々が居たことは間違いない。しかし当時の造船技術と航海技術をみれば、この列島を埋め尽くすだけの大量の移入があった訳ではないのだ。縄文人こそが、わたしの、直接の、ルーツなのだ。とんでもない勘違いだった。


田園とはいえ人目を避けるために、林檎畑の木陰まで歩いた。わたしは涙がにじんで止まらなくなっていた。しばらく木陰に隠れていたら、風が涙を乾かしてくれた。今日、祖先に会えたんだということをもう一度思い起こし、ふたたび歩き始めた。


あの表情は、縄文のビーナスの顔にほどこされた表情は、「希求」なのだ。間違いない。そっくりの顔をした土偶、土器の装飾の似たような表情、これらはみな、希求を表している。いのちをつないでいくことが困難だった時代、ひたすら祈ることしか手だてがなかった時代、造形に希求を込めたのだ。なにを? 生きることだ。いのちだ。この一点に込められた祈りなのだ。

そしてわたしは、生きている。祖先が希求した通り、いまこうして生きている。この奇跡に、わたしは涙したのだ。








2017年8月15日火曜日

満ちてまた移ろう時に


わたしにも、ささやかながら夏休みが訪れてくれた。日程と天気図とを眺めてみれば、山靴を履いて出かけることは無理なようだ。日帰りで良いからアルプスの稜線の風の音を聴いてみたいと考えていたが、致し方ない。

山への思いを振り切るような朝は、300グラムのスパゲッティを茹でよう。むろん、わたし独りで平らげるのである。具材はベーコンと庭の畑の野菜たち。




オリーブオイルとにんにくの香りを楽しむ時間。後立山方面の某山小屋に居る友人から「酒が切れてやるせない思いをしている」というメッセージが頻繁に届くのだが、やるせなさとやらは、断ち切ってやれそうもない。

ふん、思い知るがいい。




強火にして麺、具材、茹で汁を合わせる。この乳化が、味わいを決める。素材と、火と、オイルが創り出す奇跡である。朝に300グラムのスパゲッティを頂くと、昼飯はもう入らない。ふん、昼寝をこいて夕方までぐうたら過ごすつもりである。これでいいのだ。










ジャックの奴、日陰のひんやりとしたコンクリの上から動こうとしない。こいつはもう7歳ぐらいになる元雄のねこで、去年の暮れから今年にかけて大病を患い死にかけた。悪行の報いだ諦めろ、と引導を渡したつもりが蘇って、いまこうして生きている。それもひとつの奇跡だろう。





アブラゼミ氏は、灼熱に炙られたコンクリの上でも、もう熱さを感じることもないだろう。長い地下生活の後の、一瞬の樹上生活は満たされたものだったことを、わたしは祈ろう。





ある宵、夕立がすぐそこに降り注いでいる。ほんの数分だけ立ち会うことができた、光と時が織りなす奇跡である。そう、すべての風景は奇跡である。





拙宅の近くの葡萄園では、良い香りが漂い流れている。葡萄の香りを嗅ぎながら、ブルゴーニュが一本隠してあったことを思い出す。まだ午後早い時刻なのに、ワインの栓を抜く言い訳が見つかった瞬間だ。




梅たちは、降りみ降らずみ、ぎらりと照ってくれるお陽さまになかなか逢えない。わたしの休日と完全な晴天という組み合わせは、滅多に訪れないものだ。いいさ、曇天ならばもう一日を費やして干してやろう。

こうして梅干たちも、やがて干し上がると笊から瓶に移る。すぐに食べられてしまうのかもしれない。来年、誰かのもとに送られるかもしれない。あるいは、永きにわたって保存されるのかもしれない。梅たちの未来は、運命は未だ定まらず。瓶の中ではゆっくり眠るがいい。








2017年8月6日日曜日

紫蘇の葉をふりかけに仕立てる


赤い紫蘇の葉っぱをふりかけに仕立てる。紫色のパッケージで売られている『ゆかり』もどきである。





梅仕事をしていると、赤紫蘇の葉っぱという副産物が手に入る。僕の梅干しは「白干し」で良く、必ずしも赤紫蘇を必要としていない。だがしかしこのふりかけ作りのために、赤紫蘇を使って赤く染めた梅干しも、つくるのである。





梅のエキスと塩をまとい、酷暑炎天の太陽が焼き尽くし乾燥させた赤紫蘇の葉。





昨年の肉厚の梅干しをみっつ、種を抜き、ふつか二晩干し上げておいた。仕上げに電子レンジの200wで2分加熱する。







フードプロセッサーにセットする。





粉砕された乾燥紫蘇の葉と種ぬき梅干し。自家製、手作り無添加の梅肉入り赤紫蘇のふりかけの完成である。





味見してみた。だれだ飯櫃を空にしたのは。いまここに白い飯がないことを呪う瞬間である。








しかし今朝は、飯がある。日曜日の朝食である。週にたった一日、ゆっくりと味わえる朝飯のひとときである。炊きたての熱いめしをどんぶりに盛る。おかずももちろん、整えてある。

紫蘇と梅が、香る。美味い。白米万歳。箸が勝手に飯を取りに行く。瞬く間にどんぶりは空になり、二杯目が盛られる。二杯目はおかずを味わいながら、ゆっくりといただく。

うむ。この国に生まれて良かった。白い飯と梅香る紫蘇の葉の、奏で合い響き合いを楽しめる国に生まれて良かった。そして、来年春までに田んぼを買わねば。欲しいものリストに一点追加である。






おかずだって妥協のかけらもない。国産豚のバラ厚切り、信州牛もも肉厚切り、これをじゅわっと炙り焼きにしてある。牛ももはレアである。中が赤い。目玉焼きを添えて、野菜が足らぬとお叱りを受けぬように庭の菜園から申し訳程度にミニトマトをもいできた。実は肉の下に、玉ねぎひと玉がカットされソテーされ、忍ばされている。ザッツ・ブレックファスト。日曜日の男の朝食とは、かくあらねばならぬのだ。






2017年7月29日土曜日

まなつのよるのいわし


わたしの好物のひとつに、いわしがある。

いわしと聞けば何でも良く、干してあろうが漬けてあろうが、ためらいなく箸を延ばす。

平日、夜遅くに帰宅すれば、食卓には何もない。育ち盛りのこどもたちが、父の分までぺろりと平らげてしまうのだ。おかずも副菜も、時には白飯も、手鍋のみそ汁も。飯櫃(めしびつ)を覗いて、木曽檜の木目がきれいに洗われていた夜の切なさたるや....。

だから父は、わたしは、食糧を密やかに備蓄している。缶詰、レトルトパウチ、フリーズドライ、エトセトラ。備蓄場所は台所ではなく、書斎である。食の安全保障の基本である。



その夜は、オイルサーディンの缶詰があった。ニッカのウイスキーがペットボトルで売られており、この缶詰が付属していたのである。大きなペットボトルでウイスキーを買うことに躊躇(ためら)いがあるわたしであったが、いわしの缶詰に背中を押されて、買い物かごに不釣り合いなまでの大きなペットボトルを、レジに運んだのである。まぁ伊丸さんの御主人、あんな大きなウイスキーを.... と近所の人に悟られはしないか、レジ待ちの間にマシンガンのようなリズムを刻んでいた脈拍のことを書きたいが、本稿の趣旨から逸脱するので省く。





ふっくらと、ぷっくりと張ったいわしの魚体が官能的である。魚体というふた文字をタイプミスしてしまいそうである。オイルの照りがまた、妖艶である。理性を失わせるヴィジュアルが、いまここにある。





ガスに載せる。そこへ、八ヶ岳産のにんにくを粗く刻んで加える。むかし雑誌で紹介されていた食べ方である。ぐつぐつとオイルごといわしを温めるのである。そして記憶では、このあとたっぷりのタバスコを叩き込む。




ぐつぐつと泡立つオイルが、濃厚な香りを立ち上らせる。海の幸にしてこの惑星の恵み、至高の魚種であるいわしの香りである。その源となった海のプランクトンたちのいのちが紡ぎ出した海の匂いである。わたしの胃袋はよじれ上がり、ごくりと生唾を飲む音が深夜の台所に響いたかもしれない。

よし、いまだ、火から下ろそう。


ここへ、辛味調味料を加える。タバスコも在庫しているが、自家製の唐辛子調味料の出番である。生の唐辛子を醤油麹に漬けて熟成させ、これをペースト状にしたものである。それはもう、辛いのである。



しかしわたしは、空腹のあまり、手元が怪しくなっている。からっぽの胃袋に流し込んだニッカも手伝って、容器を取り落としそうになったりする。

さて、唐辛子のペーストを.....